サボる哲学リターンズ!第2回 注文できない料理店
深すぎて何度も読み返して唸らされる。
ふだんお店で売られている魚たち。おいしいから値段がついているのではない。定期的にまとまった量がとれる。それがわかっているから、仕入れと販売のルートが確立して、商品として値段をつけられる。
逆に、どんなにおいしくても、たまにしかとれない見知らぬ魚には値段がつかないのだ。だから漁師も捨てるしかない。そんな魚たちを友だちの漁師にたのんで、すべてもってきてもらう。
よく魚の目利きとかいうけれども、そんなの商品になるかどうかの選別でしかない。魚なんてみていない。売れるかどうか、人間しかみていないのだ。それに慣れると、漁師は売れる魚しかとらなくなる。おなじ魚しか店頭にならばなくなる。それしかみんな食べなくなる。いつしかそれが「おいしい」になる。
なんだかこの辺り、魚だけじゃなくて僕たち"人間"も同じじゃないかと思えてくる。
「ふだん大手就職市場で売られている労働者たち。優秀だから値段がついているのではない。定期的にまとまった量がとれる。それがわかっているから、仕入れと販売のルートが確立して、商品として値段をつけられる。」
「おなじ人間しか労働市場にならばなくなる。それしかみんな雇わなくなる。いつしかそれが「優秀」になる。」
でも、そんなの人間の感覚をとてつもなく狭めていないか。売れるのとおいしいのはイコールじゃない。ムダな魚なんて一匹もいない。むしろあたらしい魚に出会えばであうほど、未知の味がひらけてゆく。おいしいの領域がひろがっていく。
自分をブチ殺して「値段がつく」人間を目指して「値段がつく」人間ばかりのコミュニティに戻ったってロクなことにならない。
「値段のつかない」あたらしい人間に出会う、勇気。うおお。
注意しないといけないのは、がんばって資本主義を批判するひとほど、それがどえらい巨大な怪物のようにみなしてしまいがちということだ。その秩序からは逃れられない。その外側にでて思考することなどできないと。批判しているうちに、資本主義が絶対的なものになってしまう。いけない。
ごもっともでございます。俺も注意しなきゃ。
市場理論家にとって、喜びのイメージは個人である。ひとりでカネをはらって食事する。消費なのだ。そしたらカネがすべてだ。高いものを食べることがおいしいものを食べたことになるだろう。
しかし、マルクスとモースはいう。きほん、ひとが喜びをかんじるのは集団になるときだ。客人を歓待、祭宴を催す。友だちや、みしらぬだれかといっしょになってどんちゃん騒ぎ。パリピ・マルクス。モースと酒が飲みたい。
そうしてだれかと夢中になって騒いでいるとき、ひとはわれをみうしなう。自己喪失をおこしている。たのしんでいるのはわたしなのか、あなたなのか、どちらなのかよくわからなくなっている。
わたしが「個人」に閉じこもっているかぎり、わたしの生きる力はわたしの利益にとらわれている。なにをやっても、わたしが喜んでいるのではない。その利益が喜びといわれているだけなのだ。痛みでしかない。
だけど、わたしが自分を他者にひらき、いままでの自分では想像もしなかったような喜びをかんじとったとき、わたしの生きる力は予測不可能なものに変化している。損得にすらとらわれない。むしろ自分なんて消えて、あなたを喜ばせるためだったら、なんだってしてやりたいとおもってしまう。うれしい。
ふーーーーーーーーむ。
中学の頃によく友達を笑かせようとして変なキャラクターを作って変な絵本や小説を書いたりしてガヤガヤ騒いでたけど、そういうノリ、なのか?客人をもてなす喜び。
なのにいつの頃からかやたらと"市場"を意識するようになって、何をするにも"売れる"とか"売れない"とか、アクセス数とか、数字ばかり気にして"人間"を見なくなっていく。
そういえば本家「サボる哲学」で、著者の栗原さんがテレワークに苦言を述べていたのを思い出した。「会話の中の"散歩"が消える」と。
私はちょうどコロナ禍に突入するタイミングでバーンアウトして休職→退職となってそのまま無職なのでテレワークで働いた経験がないのだが、仕事関係者とのコミュニケーションを最小化できるなんていいじゃないかと思っていた。なので、なんで栗原さんがテレワークに反対なのか最初はよく分からなかった。
でもよくよく考えてみれば、「人との関わりを減らしたい」というのは、関わりたくもないような相手とカネのために四六時中関わる生き方を前提に考えているからこそ出てくる発想なのだ。
精神医学という"権威"から「コミュニケーションに"問題"がある」なんて言われたら、じゃあなるべく人と関わらないで働く方法を考えようとか、人と関わらずにひっそり生きていく方法を模索しようとか、そういう方向についつい考えちゃう。他者とのコミュニケーションそのものに見切りをつけてしまう。
でもここでいう"問題"というのは、権力層視点での"問題"だ。彼らの"道具"として"問題"があるだけだ。人間として欠陥があるわけではない。利益のために平気で他人を騙して道具のように使い潰して、しかもそれを姑息に隠蔽したとしても「コミュニケーションに"問題"がある」とは言われない。他人を蹴落としてでも権力者と資本家のために利益を上げて気に入られようとしたり、上に逆らえないストレスを下にぶつけてまで自分が生き残ろうとしたり、あるいはダラダラひとつの職場に居座って働いているフリを続けてキレイな職務経歴書を作ったりすることが"健常"であり、この国における"正しいコミュニケーション"なのだ。狂ってるぜ。
そもそも"問題"というのは、あると思えばあるし、ないと思えばないものだ。「"問題"がある」というのは発言者の"感想"でしかない。それって権力者の感想ですよね?
話が長くなってしまったが、そろそろ結論に入ろう。
人と関わる上で大事なのは、"上"が求める"能力"やそれを身につける"努力"ではなく、未知との出会いに踏む出す"勇気"なのかもしれない。
もし今この文章を読んでいるあなたが比較的「値段がつく」労働者であったとしても、今の納得いかない働き方から抜け出して新しい会社や業界や職種、雇われない働き方に挑戦したいとか、あるいはちょっと疲れたから働くことを休みたいとか思ったら、やっぱり未知の世界に踏み出す"勇気"が必要になってくる。
僕たち日本人に必要なのは更なる努力ではなく、未知の味に出会う"勇気"なのだ。
「だって、おもしろい味に出会いたいじゃん」。